続・英語

 上でなんかごちゃごちゃと、きちんとまだ自分の中で整理できていないことを書いた結果、oohさん(id:ooh)に拾っていただきました。まだ考えている最中のものをこうしてきちんと読んでいただいたことに感謝と羞恥が・・・あうあうあ。
 以下、oohさんの日記より数箇所引用しつつ。勝手に引用させていただきます。

割り切る

んが、日本語らしい考え方とか日本語らしくない(つまりは英語的ということなのか)考え方という区別がある、認識があるならどちらか一方に統一して使用することもできるのではなかろーか。大変そうだけど。

 あー、そっか。どっちかに割り切っちゃえば簡単なのか。
 うん、普通に喋るときはそうした方が会話上スムーズに進むんだろう。そうか、里村が不思議ちゃんというか電波だと剣道同好会の方で言われまくっていたのは、そのせいだったんだ(違)。
 それでも、この変な考え方を、小説を書くときにはなんとなく武器にしたい。武器になるほど洗練された感覚なんかじゃないんだけど。もっとこの感じ方や考え方を、意識的に使えるようになりたい。日本に帰ってきてからも、ちゃんと嫌がらずに英会話をやっておけばよかったのかな。
 あーあー。
 やっぱり、きちんと頭の中で整理してから書けばよかったんだろうか。でも、整理したらまた忘れている気がするし。

cozy

で、cozy。多分探せば日本語でしっくり来るものもあるんだろうけど多分それは昔むかーしの漢文かなんかに出てくる熟語(なんだやっぱり外国語じゃぁないか)であって、読む人には伝わらない。じゃあそのまま英語と日本語あるいは英語的なものと日本語的なものを混ぜた形で書けばredlambさんの師匠さんのおっしゃるように僕のような人間(日本語おんりー)には読めないものになる。少なくとも著者の意図したような理解にはたどり着かない。ただし読者にはこんな不思議な文章読んだことがないわぁ的な効果が現れるかもしれない。がこの場合は著者本人にはその感覚はわからない。せいぜい不思議な感覚を与えるだろうという予測のみで、細かい制御はむりだろう。
(中略)
一方redlambさんのような日本語英語かき混ぜおつむの人にはバチコーン!!と伝わるかも知れない。ひょっとしたら日本語/英語比が同じくらいの人にしか伝わらないかもしれない。どちらにしろ現在の日本ではその対象者は少ないだろうな。将来チビのころから英語使ってるような人間が増えれば里村小説(?)がメジャになるかも。 

 どうなんだろう。英語と日本語両方使って小説を本格的に書いたのは今回が初めてだから、今まではなんとも言われていなかったけど。それでも、読んでいた友達は変な感じとか、合わないとかよく言っていたけど。傾向が違うともよく言われていたけど。もしかしたらそれがそれなのかもしれないし、本当に単にその子とはジャンルが合わなかっただけなのかもしれないけれど。
 ただ、cozyに関しては、里村の考えている単語のイメージが辞書のイメージと合っていなかっただけなのかもしれないけれど。昔、英語を勉強し始めたのとき、happyという単語が「幸せ」という意味だと知ったときは衝撃を受けたからね。ずっと「楽しい」みたいな感じだと思っていたから。そういう風に、自分が使っていたときに信じ込んでいた感覚があって、それは辞書的には違うんだけどこうだ、と思い込んでいるものがるから。cozyもそうなのかもしれない。なら、その感覚に合う言葉を探さなきゃいけないんだろうな、本当は。そうすれば、きちんと里村が言いたい感覚を伝えられるのかもしれない。
 もしくは、本当に辞書的な意味を引き出して、oohさんが言うように違和感を与えることを目的にしても、それはそれでいいのかもしれない。日本語の方に里村もウェイトを置いているから、それによって与えられる違和感も、ある程度は想像できるかもしれない。でも、それはある程度で、ちゃんと細部まで考えられるか、という問題もある。まあ、読者に予想通りの感覚を与えられることってありえないんだけどさ。それでもある程度の予測の範囲内っていうのがあるよね。それができるか。

じゃあ、どうしようか。

 とにかく考えないと。考えないと。一体どういうものを書くつもりなのか。どういう風に書くつもりなのか。
 もしくは、考えないでとりあえず書かないといけないのかな。振り返るのはあとでいいと言われたし。自分の中の問題がだいたい里村の小説には出てくるから、それとは向き合わなければならない、とも言われたけれど。考えても振り返らない。そのとき自分が思ったように書けばいいのか。
 ああ、そういうことか。考えたら書く。とりあえず今考えたことを書け、それがなんであろうと書き続けろ。
 そういうことなのか、と一人で納得してみる。

とりあえずは

 「里村小説」という単語に笑いました。ナイスです。